御嶽教直轄・本庄普寛大教会(普寛霊場) は、木曽御嶽山開闢の祖とされる普寛大行者とその弟子達の墓をお守りしている御嶽教直轄霊場です。現在の普寛堂は安養院32世 文竜上人を発起人とし、普寛堂4代目堂主 金剛院寿光を願主として文久8年より造営工事が始まり明治3年(1870)竣工、現在に至ります。
御嶽五山は、越後八海山・上州武尊山・木曽御嶽山・秩父意波羅山・上州三笠山をいいます。御祭神は国常立命₌御嶽山座王大権現・大貴己命₌八海山堤頭羅神王・少彦名命₌三笠山刀利天王です。
現在も普寛大行者の教えをもとに全国から集まる御嶽教信者と年間行事を通して山岳修行や火祭りなどの行事を行っております。一般の方も春・秋の大祭は見学・参加可能です。また、武州本庄七福神めぐりの一つで大黒尊天も祭られています。
家運長久・家業繁栄・闘病平癒・心願成就などの祈祷「命・ト・相」といった五術全般のご相談をも受け付けております。(ご予約のみになります)
普寛大行者について
正本山本明院木食普寛行者は享保16年(1731年)5月3日、埼玉県秩父市大滝にて剣術道場を開いていた木村信次郎の五男として生まれた。幼名は木村好八。幼少のころから父に師事して直神影流(秩父心陰流)の腕を磨き剣の腕は超一流であった。さらに学問は三峰山観音院高雲寺の学問所において学んだ。元より記憶力も良く努力家であったため他を抜きん出た学力であったらしく「神童の誉れ高く 群児と遊ばず ひとり書を読み その聡明なること 他に比類を見ず 長じて左近と号し 弟子の雲集を見る」と碑文にある。
普寛24歳の時、江戸の親戚浅見家に養子に迎えられ、浅見左近と名乗る。八丁堀に剣術の道場を開き、大勢の門弟を抱え江戸三刺客のひとりと数えられた。そんな左近の元へ三峰山観音院高雲寺より日照法印が訪れた。久方ぶりに再会し昔話を懐かしむと、やがて日照法印は左近に思いがけないことを告げる。「左近殿あなたは剣を握って生きる人ではない。剣を持つ手に数珠を握って生きる人です」考えもつかなかったことを告げられた左近は衝撃を受ける。そして熟慮に熟慮を重ねて「よろしくご指導を・・・」と願って二百石二十五人扶持の武家の身分を捨て、庶民の病苦救済のため修験者・本明院普寛となって三峰山において本山派の修行に入った。時に明和元年(1764年)左近、男盛りの34歳のことであった。こうして出家した左近は、両神山において当山派修験道場 金剛院梅永法印より当山派の指導も受け、秩父において本山派と当山派の両派の修行を重ねた。さらに普寛は、中央道場、奈良・大峰山をはじめとし吉野熊野、遠く足を延ばして四国石鎚山や九州まで行脚し法力を磨いた。諸国行脚の道中で難病や憑きモノなどで苦しむ人があれば祈祷したり、薬草を煎じて飲ませたりし、庶民の病苦救済のため尽力した。この薬草こそ現代まで伝わる「おんたけの百草丸」として知られる胃腸薬である。
法力を磨いた普寛はやがて「御座」と呼ばれる独自の「神憑り・神懸り」の法を創出する。この「御座」とは神仏や霊神を降臨させて教えを説く儀礼で、木曽御嶽信仰の神髄であり、同じ修験道であっても他の宗派にはない御嶽山独自のものである。言い方を変えれば「御座」こそ御嶽山信仰であり、御嶽山といえば「御座」となる。
寛政4年(1792年)正月より普寛は3ヶ年の木食行に入る。そして同年弟子を伴って艱難辛苦の末、御嶽山王滝口を開山する。この他にも越後 八海山、上州 武尊山、上州 三笠山、秩父 意波羅山も開山している。そして江戸を中心に中山道一帯から関東八ヶ国まで布教し信者を救っていく。
このころの本庄の世話人は油屋助次郎(油商)、岸屋藤吉(回船問屋)、清水屋金次郎(漆器商)、萬屋吉兵衛(雑貨商)、菊屋太兵衛(上州藤岡・質屋) など有力な商人たちが名を連ねていた。
江戸においては後に御嶽教八代・九代管長を世に出す名門御嶽講社、高砂十二講社の秩父屋栄治も在家の有力な世話人であった。
享和元年、普寛は御嶽山から江戸法性院(自坊)へ帰る途中、風邪をこじらせ本庄宿の世話人米屋弥兵衛方にて静養する。この時70歳をこえていた普寛は死期が近いことを悟り、「幽体離脱」をして身は本庄宿に残したまま弟子たちの所へ魂を運び、「余が九月十日、用があるから参れ」と告げに行く。
迎えた9月10日普寛は、弥兵衛の家人に風呂を沸かすよう言い付け身を清めると新しい真っ白な着物に着替え床の間にて結跏趺坐に足を組み、光明真言を唱えながら弟子や世話人たちに看取られながら冥界へ魂を移す。朝日差す穏やかな日であった。
安養院24世 眞契祖宗大和尚が駆け付け「嗚呼、木曽御嶽山開闢の大行者、縁ありしにより茲に眠れる。まさに一大の大行者」と菩提を弔う経文を唱えると、たった今冥界に魂を移し棺桶に納められた普寛であったが、傍に控えていた弟子の泰賢に憑依し「眞契祖宗大和尚・・・供養を受ける」と大声を発する。これを「棺中大声」と称する。そしてこれが肉体が滅びても霊魂不滅の原理により、普寛が入寂してから最初に「お告げ」を下し渡したものとなる。
こうして本庄宿にて亡くなった普寛は安養院墓地の一角に埋葬される。この時信者の投げ込む賽銭によって埋め土は必要なかったとされる。いかに普寛を慕う信者が多かったか伺い知れる。墓所は後に現在の普寛霊場に移される。
「なきがらは 何処の浦に捨つるとも 身は御嶽に有り 有明の月」
「なきがらは 何処の里に 埋むとも こころ御嶽 有明の月」
普寛の詠とされる
普寛堂の壁には四方を守る霊獣、青龍・朱雀・白虎・玄武の刺繍が飾られている
「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたくらい江戸は火事が多く、火災時に果敢に立ち向かう火消しは人々に尊敬されていた。当時の江戸は泥棒・強盗・夜盗などが多く彼らの中には証拠隠滅のため火付けをする悪党もいた。商人の中には、火災時以外にも家族や財産を守るため、身の回りの警護・屋敷の警備などを火消しに依頼していた者もいた。江戸の町には盗賊除けで有名な三峰山信仰が多く、その地で修行を重ねた普寛大行者による火難除けの御嶽山信仰も当然の如く広まった。火事の度に命懸けで活躍する火消しが命を落とさぬよう、普寛大行者は火難除けの祈願をした。その火消しを大切にする江戸商人達に普寛大行者は絶大な信頼を得ていた。
吉原遊郭も最初は日本橋にあったが、明暦の大火により焼失し浅草へ移転し新吉原遊郭となった。吉原でも火難除けは必至であり、さらにそこで働く人々の開運祈願等、普寛大行者を頼る信者は多かった。
本堂内にも江戸消防各區より木製額の奉納があるのでこの玉垣と併せてご覧いただきたい。庶民の救済のため尽力した普寛大行者への感謝の意が表れている。